脳死を一律に人の死とするのはおかしい

参議院でもA案が可決とか、まったくもって信じられん。参議院はやっぱり不要だったことが証明された。前回衆議院でA案が可決された時からつらつらと考えたが、臓器が移植できるということは「生きている」からなのであって「脳死」という言葉は臓器移植のための「方便」なのです。で助かる可能性が低い方から助かる可能性が高い方へ命をリレーすることでもあるわけで、ドナー側がそのように意思を表明していれば、それはそれで「あり」だとも思うのです。ですがどうしても納得できないのは子供がドナーになる場合です。子供は親に気兼ねするので自由な意思表明はできません。今回のA法案のとんでもないところは年齢制限を撤廃しているのと、一律脳死を人の死と定義してしまっているところです。人間は身体全部をひっくるめて人間であって、脳だけが特別な臓器ではありません。脳だけが特別と考えるのは西洋的(?)な考え方のような気がするなぁ。じゃあ脳が死んでも脳の代わりをする高性能コンピュータの実装が可能になったらどうなるの?その人の人格は戻らなくても、それじゃ記憶喪失と何が違うの?

2020年3月

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このページは、アローブックぱそこん教室が2009年7月13日 14:21に書いたブログ記事です。

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